研究と論文との関係

研究・教育
Dariusz SankowskiによるPixabayからの画像

最近

 最近、本業の大学教員の仕事が例年以上に多忙であり、かつ、株式にも興味を惹かれるシーズンなもので本来の本ブログの使命である、研究者(大学教員)を目指す方への助言がさぼりがちでした。誠に申し訳ございません。今後とも、研究面はもちろん株式をはじめとする投資に関しても情報発信していくつもりです。

 本日は、研究活動(論文や研究書を読んだり、論文を執筆したり等のこと)と研究活動の成果である論文との関係について、どのように考えていくべきかにつき考えていきます。これは、研究者を志す皆様の日頃の生き方、過ごし方に直結する面もありますので、代表的な2つの見解(伝統的見解と新しい見解)を紹介した上で、私の考えを述べたいと思います。

研究活動の成果が論文であるという考え方(伝統的見解)

 研究活動(論文や研究書を読んだり、論文を執筆したり等のこと)と研究活動の成果である論文との関係について、研究活動の成果が論文であると捉える考え方です。即ち、自分の興味・関心のある研究テーマを自らの力で見つけ出し、そのテーマについて先行研究にあたり、多方面からじっくりと考察し自分なりの考えをまとめ、それらの研究成果を論文という形にまとめ、学術雑誌もしくは何らかの学術系書籍である研究書の形で広く公にする、同時もしくは前後して学会・研究会で研究報告する等して批判なり示唆を得て更に自らの研究を深めていく、というものです。

 上記は伝統的な見解であり、概ね古いタイプの研究者が支持しています。一見すると当たり前のように思われる見解でもあるのですが、この見解にはいくつかの見逃せない欠点があります。第一は、時間を意識していない点です。社会科学系はじっくりと社会を考察する学問ではありますが、じっくりといっても限界があります。今日の様なインターネット全盛の、非常に変化の激しい時代であるのならば、社会の変化も激しいものあります。数年前のことはもはや論文として公表する価値も、じっくり考察する価値さえもなくなるといったことも有り得ます。じっくりと考えて、10年後に大論文を発表するといった研究スタイルがギリギリ許容されていたのは、昭和~平成初期までです。第二は、この見解は一応の到達点である論文・研究書執筆を余りに意識していないという点です。研究成果を意識した上での日々の研究活動には一定程度の緊張感なりいい意味での焦燥感を伴いますが、いつ研究成果を出してもいいような研究は往々にして怠惰な研究態度、即ち、研究成果を出すことがずるずると後に回されがちです。第三に、研究に無駄はつきものであり無駄を否定するともはや研究は成り立ちませんが、そうはいっても伝統的見解だと研究成果に直結しない研究があまりに多くなる可能性があることです。

 このような伝統的見解に立脚している研究者(大学教員)は少なくなりましたが、一部の大学なり一部の学派(Schule)では、今でも当然のこととされているようです。以前のようにしっかりした大きな論文が1つあればそれなりの大学に就職できる(専任教員になれる)という時代ならば通用した見解ですが、今はそういう時代ではありませんので若手研究者の方はご注意ください。

論文を書くために研究するという考え方(新しい見解)

 上記の伝統的見解とは逆で、論文・研究書を執筆するために研究すべきであるという考え方が登場します。論文・研究書の執筆に直結する研究をすべきことになります。新しい見解と言えましょう。このような考え方が登場した背景には、様々な局面において論文本数を重視するようになった研究者コミュニティ・社会全体の変化と無関係ではありません。研究者になるための最大の関門である専任教員採用の際、昇進の際、科研などの競争的外部研究資金獲得の際など論文本数が一定レベルないと話にならない局面は以前より格段に増えました。というのも、上記のような重要な局面で判断を下す際には説明責任が求められ、そのためには一定の判断を裏付ける証としての論文がないことには説得力を持ちえないからです。

 この新しい見解の問題点としては、以下のようなものがあります。第一は、論文執筆に無関係な研究は一切しないという傾向を助長しやすく、視野の狭い研究及び研究成果を生み出すことに繋がりやすい点です。第二は、余りに功利主義的で論文が書ければそれでいいのだ、論文の質などどうでもいい、目先の専任教員のポスト獲得、昇進、研究費ゲットさえできれば、研究なんてどうでもいいという態度の研究者を生み出しやすい面があることです。第三は、本来は興味・関心のある研究テーマを24時間365日いつでも考え続けることが理想ですが、この見解だと論文執筆が義務的な色彩が強くなりますし、研究を良い意味で楽しむ余裕が失われる懸念があります。

中庸にこそ真理

 上記の2つの見解は極端ではあるものの、自分にとっての研究とはいかなるものか、自分の人生にとってどういう意味をもつのかを自らに問う際には有益でしょう。理想は、研究が好きで365日24時間にわたり研究に励み、当然の結果として研究成果を定期的に出していくというものでしょう。つまり、伝統的見解が理想であると思います。とはいえ、研究活動の成果が論文だとするなら、研究活動が上手くいかない期間、一切論文を書かなくてもいいというのも甚だおかしな話です。僅かではあるけれども、研究活動をしているのであれば1年に1本程度の論文が書けない筈はないのです。

 そこで、私は、研究活動の成果が論文であるという伝統的見解に立脚しつつも、研究成果については最低限1年に1本は論文等(論文が難しければ、翻訳や書評、資料などいろいろな方法が有り得ることでしょう)を公表すべきであろうと考えています。中庸的なものの見方・考え方にこそ真理があるように思えます。研究者志望の皆さんが専任教員になった際に実感するのは、研究以外の仕事の多さだと思います。研究以外の教育や大学行政・社会貢献活動等で多忙を極めます。なかなか研究時間を確保することでさえ容易ではないのが現状です。ですが、自らが大学教員として個人研究室を貸与され研究費を支給されているのは自らが研究者であるからにほかなりません。研究を放棄したに等しい大学教員は、もはや大学教員の名に値せず学生教育をする資格もなく大学から去るべきなのです。

 研究者を目指す方には、研究は一生涯続くものであるという認識と覚悟を持って欲しいのです。決して難しいことではありません。この認識と覚悟がないと、専任教員になれないとか専任教員にはなれたもののいつまでたっても専任講師・助教のままということになりかねませんので。なお、上記に紹介する書籍は、古典的名著です。研究者志望の方には専門分野の別を問わず読んで頂きたいので紹介しました。

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