大学院の現状
国の大学院重点化政策により主要な国立大学では大学院教育に力をいれるようになり既に20年以上の年数が経過しました。有名私立大学でも学部の上にある付け足しが大学院であるという認識は改められる傾向にあります。大学進学率が上昇したこともあり、大学の中核は学部ではなく大学院にこそあるという認識が広まりつつあります。そのため、大学院には学部卒業直後の学生だけに限らず、様々な年齢・経歴を有する方が入学するようになり、大学院生は依然と比較するとかなり多様化しています。研究科によれば大半の院生が社会人であるという例もそれ程珍しくはありません。とりわけ、大学院の社会科学系の研究科が社会人のリカレントの場として機能している現実があることを否定できませんし、一つの方向性を示しているようにも思います。
本日は、これまで触れてこなかったものの基本的な事項である、学部と大学院の本質的な違いについて、大学教員の視点から情報発信します。これまでのブログ内容と重複する箇所もあるかもしれませんが、重複するところはそれだけ重要な箇所だとご理解下さい。
学部と大学院との違い
学部と大学院の違いは、実は決定的なものがあります。そして、結論から言うと、これまでの時代であれば学部で求められる能力で社会を渡っていくことができましたが、現在及び将来においては大学院において求められる能力こそが重要であるとみて間違いありません。
学部では、これまでの先達が形成してきた学問体系にはじめて触れることを前提に、体系的・段階的に学問体系を理解できるような形でのカリキュラムが編成されています。入学当初の一般教養・語学といった科目も、専門とする学問体系をより広い視野で、かつ、より深く理解するために必要であると考えられているため学ぶことになっています。そして、学部段階で学ぶ専門分野については学部で展開される幅広い科目を履修することになっています、つまり、自分の興味のある分野・興味のない分野・どちらでもない分野を薄く広く学ぶことになります。薄く広く学ぶことので、学部段階でより突っ込んだ考察まではなかなか難しく、ゼミ(演習)や卒業論文等で一つの分野を突っ込んで学ぶことができるに過ぎませんし、独自性やオリジナリティを出すことまでは求められません。
大学院では、博士前期(マスター)では若干学部の様な色彩が残っていますが、それでも専門分野をより突っ込んで学ぶことが求められますし、修士論文では一つの分野に特化した形での研究、先行研究をふまえつつも僅かながらでも独自性・オリジナリティーを出すことが求められます。ここは学部時代とは大きく異なるところです。更に、博士後期(ドクター)に進学すれば、自らが独力で一つの分野を研究していくことになります。ドクターにおける実態としては、自らが独力で論文を書くことが求められ、論文がそこそこ書けたら指導教授に連絡し指導を受けるというのが一般的です。指導といっても院生と指導教授は学問に関しては対等な研究者として議論するという形になります。そして、博士論文では修士論文よりも高いレベルの独自性・オリジナリティを提示することが求められます。そして、研究成果である論文はそうそう短期間で書けるものではなく、考え抜いて書きますので博士論文を提出するのが数年遅れてしまうというのも無理からぬところです。
両者の違いをふまえて
要するに、学部では既存の学問を薄く広く学ぶ能力(可能な限り短時間の内に)が求められているのに対し、大学院では一つの分野を継続的に粘り強く追求していくだけの能力が求められています。そして、学部で求められる能力は皆様ご存じの偏差値的な能力でして、大学受験時に求められる能力とみてほぼ間違いありません。この能力は、良質かつハイレベルな企業マン・公務員として必須のものです。先がある程度読める安定的な時代にあってはこの能力だけで十分で、大手有名企業がこぞって高偏差値大学の出身者を採用したがったのも理由のないことではありません(現在、大手有名企業でも出身大学は足切りに過ぎず、更に人物を見る傾向にあることを学生を通じて理解していますが、皆様の方がお詳しいかもしれません)。他方、大学院で求められる能力は、学部時代に求められる能力と似て非なるものでして、問題意識をもって自分の興味のある、そして、これまで問題視されなかったものの今後重要になってくる研究テーマを自ら見つけ出し、その一点を深く深く掘っていき、成果を出すというものです。そのため、学部では抜群の成績であった学生が大学院に進学しても研究者としてどうもぱっとしない、あるいは、学部では大したことのない学生かと思っていたら大学院で将来問題になる研究テーマを発掘し、その分野の権威者になるということも間々あることです。世間の方が誤解されやすいのは、学部で必要とされる能力と大学院で必要とされる能力の両方を有している方が、ごく少数ながらおられます。天才としかいいようがないですが。誤解を恐れずに申し上げますと(私の理解する限り)一定水準の知的レベルを超える方にあっては、学部で必要とされる能力、大学院で必要とされる能力のいずれかは有しているように思えます。
そして、現在は先が見えにくい時代です。そして変化が激しい時代とも言えましょう。このような現代社会において、既存の学問体系を短期間で薄く広く理解する能力だけでは不十分です。未知の分野や未開拓の分野に柔軟に対応できる能力も必要でしょう。その能力は学部教育ではなく大学院教育で育まれるように思えてなりません。そして、大学院教育を受けるまでもなく、そもそも未知の分野や未開拓の分野に柔軟に対応できる能力を有している人もおられるでしょう。例えば、起業し、会社を経営しているような方は変化に対応できなければ会社が潰れてしまいますので、既にそのような能力をお持ちの方が多いようにも思えます。
私自身のこと等
最後に、私自身は大学院で必要とされる能力を有している方でした。学部で必要とされる偏差値的な能力は普通の人レベルです(社会科は得意だったくらいです)。このような私のようなタイプの方は結構存在するようにも思えます。例えば、私の親友に幼少の頃から機械大好きなのがいます。彼は中堅どころの大学の工学部に進学し、学部時代の卒業研究の先生から(先生の出身の)著名国立大学の大学院に進学することを強く勧められたということがありました。ところが、彼は英語が苦手で「英語が苦手な者が大学院などに行ってもついていけないだろう」と親父さんの大反対にあい止む無く院進学を断念しました。今にして、彼の能力を見抜いた先生の慧眼に感服するところであり、その先生の考えるところが分かるような気もします。彼のようにズバ抜けた専門的能力があれば、興味のある機械工学に関する英語の文章なら十分読めたと思います。親父さんの無理解が残念でなりません。しかも親父さんは、大学(理系)を卒業し当時、県立高等学校の校長でどちらかというと何事にも理解のある柔軟な思考の持ち主でした。それだけに、研究の特殊性というのは、柔軟な思考のできる教育者であっても理解できないという一例を示しています。研究の本質的なところは意外にも周知されていないのかもしれません。幸い、彼は企業で大活躍し、忙しそうにしています。
最近は、学部卒の学生に限らず社会人経験のある方でも大学院に入学することが珍しくありません。それだけに、専門分野に強い興味・関心を有している上記の私の親友のような方はまさに研究者(大学教員)としての適性があると確信します。多くの意欲・能力ある方が研究者(大学教員)になられるためのささやかながらの助言を継続したいと思っています。
コメント