目次
おさらい
研究者になるために必要となる正統的な能力として、①論理的思考力、②論理的表現力、③語学力、の3つが必要であると前回指摘しました。その上で、前回は、①論理的思考力について考察しました。その結果、論理的思考力の中身とは、研究者により書かれた(専門分野に関する)書籍・学術論文といった論理的な文章(=先行研究)を正確に理解する能力であることを申し上げました。そして、正確な理解をしようと一生懸命文章を読み進めていくと、往々にしてここは違うのではないか、ここはもう少し掘り下げて検討すべきではないか、ここはどう考えるべきなのだろうか、といった素朴な疑問・関心を抱くことになるところまで触れました。では、その先、どういったことをなす必要があるのかを本日述べていきます。
論理的表現力ー導入
先行研究を正確に理解し、かつ、理解するにあたり素朴な疑問・関心を抱くことが研究の第一歩だとみて概ね間違いではありません。そして、先行研究に対する素朴な疑問・関心は、何となく疑問だ、何かおかしいといった感覚的なものではなく、第三者に対して論理的に説明できる内容である必要があります。論理的に説明のできない疑問や関心は、研究の第一歩に相当する疑問・関心でさえ有り得ません。この論理的に説明のできる能力が研究者にとって大変重要であり、論理的思考力の次に重要となります。
また、どのような部分に疑問・関心を抱くのかは人それぞれ・千差万別ですが、どのようなところに疑問・関心を有したのかということは、研究者としてのセンスが問われる部分でもあります。どうでもいい些末な箇所であり、かつ、その箇所が時間を書けて議論する意味もないのであれば、センスは悪いことになりましょう。ただ、一見したところ些末な箇所ではあるものの本質的な部分とリンクする、本質的な議論と密接な関係がある箇所に疑問・関心を有したのであれば、センスが良いと評価されることも多いでしょう。本質を見抜く目、洞察力が院生の段階から必要です(もちろん、センスを鍛えることは可能ですし必要なことですが、往々にして自分が興味のある、好きな分野はこの能力を既に有している場合が多いようにも思います)。要するに、時間をかけて議論するだけの価値のあるテーマを発見できたのかどうか、という点が重要です。
論理的表現力ーまずは書くこと
では、時間をかけて議論するだけの価値のあるテーマを発見した場合、そのことを第三者に論理的に説明するにはどうすべきなのでしょうか。まずは、文章に書くことが必要になります。文章化する中で、自分の誤解・不勉強に気づくこともあるでしょうし、自分の中で生まれた疑問・関心がより深まることもあるでしょう。とにもかくにも、自分の頭の中にある内容を文章化すること(アウトプットすること)が、重要です。といいますのも、社会科学系の大学教員たる研究者の仕事とは、研究をすることであり、ここでいう研究の中身とは(文章から成立する)論文を書くこと及び論文執筆の準備をすることだからです。研究者と論文は切り離すことができません。そして、研究成果である学術論文は、広く公にされます。つまり、本や学術雑誌に論文を投稿し、本や学術雑誌は大学図書館をはじめとする研究機関やインターネットで閲覧することが可能になります。広く公にすることにより、様々な評価、批判を受けることになるのは当然のことです(論文が読まれて批判されることは恵まれている方です、多くの論文は大して関心をもたれることなく廃れていきます。無視されるというのが研究者にとって最も酷なことでもあります)。研究者であるのなら、論文を書くべきであり、論文を書くために必要となる最も重要な能力が論理的思考力です。
論理的表現力ーその本質と特徴
わが国では小中高の段階で、徹底して書くこと(アウトプット)を訓練されることが決して多い方ではありません。むしろ、知識を注入されること(インプット)がメインだとお感じの方も多いかもしれません。そして、書くことと言えば、小説を読んだ後に書くことになる読書感想文や日記のようなもので、これらが嫌いだという方は論文を書くことなんてとんでもないと感じるかもしれませんし、このような理解も現状からすれば無理もないことかもしれません。
しかしながら、論理的な思考を文章化した論文とは、決してこれまでの読書感想文とも日記とも小説とも全く異なるものです。一定の作法に基づき、論理的に一定の事柄を考察していくもので、論文を書くことが難しいのではありません。訓練さえすれば多くの方が論文執筆することが可能になると確信します(難しいのは、何をどのように書くのかであり、論理的な文章を書くことについては心配されなくてもよいでしょう)。
わが国では、これまで書くことについて徹底した訓練を受けた方が少ない傾向にあるので、最初はきついと感じるかもしれませんが、とにかくたくさん書くことです。あれこれ考えて、何も書けない、最初の数行で止まってしまうようでは、そもそも自分の中に確固たる疑問や関心がなかったことになります。普通はそういうことは稀で、何かしらのことは書けると思いますので、その内容を恥ずかしがらずに専門家の先生に診てもらうことです。学生諸君は、最近どの大学でもオフィスアワーという制度が存在しますので、オフィスアワーの時間に先生方の研究室を訪問して添削をお願いするのも一案でしょう。
論理的表現力ーより具体的に
論文を執筆する際、前回の「論理的思考力ー研究者になるために①」で紹介した論理的思考力のところで述べましたが、論文にはオリジナリティ(独自性)が不可欠ではありますが、100%独自性を有する論文は有り得ません。社会科学系の学問分野では先行研究をふまえる必要があります。そして、論文の大半は先行研究を自分なりに整理してより分かりやすい形で提示する部分が9割程度にのぼります。自分の疑問に対する一定の答えを披露する部分(独自性・オリジナリティ)は最後に一定の分量を書けばそれで十分なくらいです。先行研究の整理・分析が大半なら論文を書くのは一見簡単そうに思えるかもしれませんが、先行研究の整理・分析の段階で、新たな視点や新たな分析手法に基づく整理・提示であることが強く求められます。先行研究のどこかしらに何らかの問題点があるので(そもそも今までは議論する社会的・理論的必要性がなかった、先行研究で解決済みと思われていもののよく考えてみれば何の解明もなされずそれが当然視されてきた等)、学問的な意味での批判的な精神に基づき先行研究を厳しく問い直す必要があります。それ故、先行研究の整理・分析といった段階でも自らの問題意識が反映された研究者としての鋭さ、が示されていることが求められ、それが十分になされている論文は高く評価されることになります。そして、テーマ設定はもちろん、先行研究の整理・分析の箇所の論述を読むだけで、執筆者の研究能力はどの程度のものなのかを感じ取ることができます。
論理的表現力=論文執筆能力
論理的表現力とは論文執筆能力と同義です。研究者を志すからには、論文を定期的に書くことが求められます(ドクター以降は、1年に最低1本は修士論文よりも質の高いものを量産することが当然のことのように求められます)。ここで重要なのは、どんな人も最初から優れた論文を書くことのできる方など存在しないことです。とにかく、書きまくることが大切です。量をこなすことで、自然と他の方の論文にも関心が向きますから、どう書くべきなのかという勉強ができることでしょう。量をこなさずに最初から質重視だというのは、これまで私の知る限りでは怠け者の言い訳でした。
また、「質重視でいきなさい、変な論文を書いてしまうともはや取り返しがつかないから。ドクターで1本きちんとした論文が書ければそれで良い」等という時代錯誤的な発言をして院生をドツボに誘導する大変問題のある指導をする指導教授が現在でもごく一部に存在するようです。確かに、変な論文を書けば学界での評価は低くなりますが、そもそもそんな変な論文しか書けない人はドクターに進学できませんし、そんな変な論文を書くような院生がいたとしてもレアケースでしょう。大半の院生はそれなりのレベルの論文を書いてきます。論文指導が面倒くさいと思っている教員は上記のような発言をするように思えます。また、ドクターで1本きちんとした論文があればそれ良いというのは、昭和~平成初期までの話で、現在のように公募人事が主流の時代には、一定の論文本数がなければ話になりません。率直に言うと、そこそこのレベルの論文がそこそこの本数ある研究者の方が優れた論文1本だけの研究者よりはるかに評価されているのが公募人事の現状でもあります。
研究者にとって必要な能力である語学力については、後日に情報発信します(なお、本文は令和3年4月21日に「研究者になるために②」とのタイトルでUPしたものを、タイトルを改め、加筆・訂正の末再UPしたものです)。
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