教職課程履修

教職課程履修の可否

本ブログでは、これまで一貫して研究者(大学教員をはじめとする研究することが職業)になるためにどうすべきか、大学1年生をはじめとする大学入学してあまり時間が経過していない諸氏を対象に色々書いてきました。本日は、研究者を志望する皆さんが教職課程を履修すべきなのか、について考えていきたいと思います。

そもそも、ここにいう「教職課程」とは、主に中学校・高等学校の教員免許取得を希望する学生のためにそれぞれの大学で開講されている、一連のカリキュラムのことを指します。通常の学部教育とは別枠のものとされているものです。卒業単位としては認定されない科目が多いでしょう。

研究者を志望する方は、概ね、大学教員を目指す場合が圧倒的であろうと思います。そして、大学教員用の免許は存在しませんし、大学教員になる資格として、中学校・高等学校の教員免許は必要ではありません。むしろ、近年の大学教員にとっての資格となりつつあるのは、博士の学位です。特に、中高の教員免許を取得する必要性はないように思われます。では、研究者を志望する皆さんが中高の免許取得を一切考えなくてもいいのか、ひいては、教職課程履修を考慮する必要は全くないのかについて、個人的な経験をふまえて考えていきたいと思います。私は、学生時代に教職課程を履修し、中学の社会科免許、高校の公民科免許・地理歴史科免許を取得しています。

現状

平成以降、免許法改正により教員免許取得に関しては厳格化される方向にあります。昭和の頃に見られたような、さして希望をしないものの大学に入学したのであれば、その証の一つとして教員免許を取得しよう、就活で全滅したら教員にでもなろうか(いわゆる、デモシカ教員)という動きに対して、極めて否定的です。そのため、真に先生になりたい学生だけが履修するようにすべきとされ、具体的には、履修すべき単位数の増加、履修すべき新たな科目の追加等がなされ物理的に自分の専門分野の科目を履修しつつも教職課程も履修することは厳しくなっています。更には、後述する教育実習において、教員採用試験を受験するつもりのない学生の受け入れは拒否するという運用が私の学生時代からなされていました。また、一部には大学を除く中高はじめとする種々の学校の教員養成は、(教員養成系の)教育学部に委ねるべきであり、一般の学部(法学部・経済学部・経営学部等)での履修は認めるべきではないという意見さえあります。

中高教員になるには、免許取得の他に採用試験を突破する必要はあり、しかも、時間的には無制限・無限定の勤務が要求されるような種々の報道が散見されることから、就職状況が比較的好調な社会科学系の学部における教職課程履修率は極めて低水準で推移しています。他方、伝統的に就職状況が厳しいとされていた(現実がそうなのかは検証が必要ですが)人文科学系の学部においては、ある種の保険として教職課程を履修する学生が一定数存在します。

教職課程の中身

教職課程で展開されている種々の科目群は、大きく2つに分類することができます。1つは、教職教養科目、もう一つは、教職専門科目です。教職教養科目とは、どの科目の免許を取得するに際しても必要となるものです。具体的には、教育原理(教育とはいかなるものか、教育のwhatを学ぶ)、教育心理学(教育の仕方を学ぶ、教育のhowを学ぶ)、人権・道徳に関する科目、各教科ごとではありますが、教科教育法(社会科であれば、社会科教育法という科目名になります)、教育実習及びその前後に行われる事前講習・事後反省を含む講義、教育実習、介護体験などをあげることができます。次に、教職専門科目とは、(仮に中学社会科の免許を取得するのであれば)、中学社会科で展開される地理・歴史・政治・経済等に関する科目です。

メリット

教職課程を履修するメリットは、どのような点にあるのか。全体として以下のことを指摘できます。良し悪しは別として、教職課程そのものが教わる側(生徒側)というよりは、教える側(教員側)の視点にたった物の見方・考え方をすることで統一しています。そのため、教員というものがいかにあるべきで、いかに行動すべきなのか、ひいては、教員の思考回路がより深く学べます。特に、印象深く感じたは、教科指導力の不十分な教員は、生徒から尊敬されることなどあり得ない、ということが共通認識として存在したことです。人格的に立派だけれど、指導力不足(例:日頃、教科の勉強をせず毎年同じ講義を展開している、教える技術が稚拙で生徒に理解させることができない)な教員は生徒からの尊敬の対象ではないとされる点でした。

個別的には、教職教養科目において、教育という営みはいかなるものなのか(やや哲学的ではありますが)、効果的な教育をなすには生徒の発達段階をふまえていかに対応すべきなのか、また、心理学の知見を応用して効果的な教育を展開するにはなにをなすべきなのか、については大変興味深く学ぶことができました。これらのことは、大学教員としても有益なことでした。また、社会科教育法では授業案(指導案、教案)の作成方法を学びことで、より良い授業の展開方法を学べたことです。1日・50分の授業を、導入→展開→整理と三つに分け、どのような流れで、それぞれの時間ごとに何をどのように教えるのか、どのような質問をするのか、を考えて書面化する指導案は大変優れたものでした。また、指導案については受講学生が少なかったことが幸いし、添削して返却してくれたので、大変勉強になりました。

教職専門科目は、これまでの焼き直しの様な科目もありましたし、より専門的な科目もありましたが、大学生としてより広い視野で学べたような気がします。また、多くの先生方の講義を拝聴する中で、雑談等の中で大変有益な発見もありました。歴史の先生だったと記憶していますが、たまたま論文執筆に関する雑談になり、脚注で引用するという行為は、単に、後日の検証を可能ならしめるだけでなく、引用した文献の執筆者に敬意を表することにもなるのだ、と語られていたのは、大変印象深いことでした。

教育実習(メインイベント)

教職課程履修における、最後のメインイベントは教育実習だと考えます。未だ教員免許を取得していない一学生を、中学・高等学校の先生方は多忙な中引き受け、様々なご指導をされるというのは大変すばらしい制度であると思います。教育実習生は、現実に教壇にたって授業を担当する機会が与えられ、担当の先生からの授業案(講義案、教案)のチェックに始まり、黒板の使い方、声の出し方(独特の癖がどの人にもあるみたいです)、教科書・副読本の利用方法(どこにラインを引かせるのか、生徒に読ませるのか自分で読むのか)、生徒への発問の仕方・発問後の対応、等具体的な側面について事細かく指導を受けることができるのは、教育実習以外では考えにくいかもしれません。このような丁寧な指導をすることから、以前から、引受先の中高の先生方の負担が想像以上のものらしく、多くは自分の出身の中学校・高等学校で教育実習のお願いをすることが多いでしょう。

教育実習期間中は、心身ともにハードではありますが、いろいろなことが見えて来る期間でもあります。少なくとも数回は教壇に立って自ら教科指導を行う機会や実際に生徒諸君と交流する機会があると思いますが、そのような経験をする中で、自分は教えるという仕事が好きなのか・嫌いなのか、得意なのか・不得手なのか、人間が好きなのか・嫌いなのか、否応なしに分かってきます。

教育実習期間を終えた段階で、中高の教師という仕事について、少なくとも教えるということを仕事とすることについて一定の結論が出ると思います。また、生徒諸君は見ていないようでよく見ていて最後にアンケートを取ると、大変参考になると思います。有益なアドバイスをしてくれる例もありました。以上から、個人的には、教えることが大嫌いだと実感できた方は、大学教員になってから教育に苦労すると思います。

デメリット

上記のメリットだけを指摘するのは公平ではありませんので、デメリットを指摘しておきます。

まずは、教職課程で展開される多くの講義を履修する必要性に迫られ、何かと忙しい学生生活がさらに忙しくなることは不可避です。また、私のように社会科学系の学部に所属していた学生が教職課程を履修する例は少なく、履修する仲間が少なく情報収集しようにもなかなか大変なので心が折れそうになることも有り得ます。また、教育実習に行く際には履修しておかねばならない科目があるケースが大半化と思いますが、その科目を落としてしまうと、教育実習に行けないケースさえあり得ます。

教育実習はやりがいのあるものですが、実習先、担当する先生、受け持つであろうクラス(担当する先生の担任しているクラス)など運に支配される要素が少なくないので、必ずしも自分の思惑通りに事が運ばない面も有り得ます。

結論

私は、大学教員になってそれなりに時間が経過し、更には、教員として教職課程に深く関与する委員を努めてきましたが、以下の様な結論に達しました。

時間面で可能であれば、直接的な目標は大学院進学・研究者(大学教員)になる学生諸君であっても教職課程は履修されることをお勧めします。

それは、現状の日本の大学において研究だけをしていればいいというポストは非常に少なく、大学教員の圧倒的多数は教育について考えねばならないのが、良い悪いは別として現在の大学教員の置かれている状況なのです。今の大学教員は研究者であり、かつ、教育者であることの一人二役を社会から強く求められているように感じます。まして、近年では大学教員採用にあたり模擬講義を実施する大学が激増しました。模擬講義の結果、あまりに酷い場合は研究面では優れた論文があったとしても教育面に難ありとの理由で不採用になることが有り得ます。とはいえ、模擬講義が優れていれば研究面で見劣りしていてもいいとい意味ではなく、研究面と教育面の両方において秀でている必要があります。

そして、大学において教壇に立つ際には、一応の方向性は示されるものの何をどのように教えるのかの詳細事項は、教員が自ら考えていかねばなりません。現在のシステムにおいて、大学教員に対して教育方法を体系的に教える機会は存在しません。そのため、私自身が目にしてきたのは、非常勤講師1年目で講義準備に明け暮れて、(専任教員になるために)一番大切な論文執筆が疎かになっているケース、やっと専任講師として採用されたものの、非常勤講師の経験はなくはじめて大学の教壇に立つことになったので、1年目は論文執筆はろくにできず日々の講義準備に明け暮れ自転車操業状態のケース、など日々の講義負担に振り回されている若手教員の姿でした。現在、大学教員には教育者としての側面が強く求められているにもかかわらず、その具体的な手段は何もないというのが現実なのです。そのため、せめて教職課程の教職教養科目あたりでも学ぶことには大いなる意義があると思えてなりません。私は、教員免許取得の際に学んだ色々なことがあったので、日々の講義はそれほど苦痛ではありませんでした。特に、教育原理や教育心理学を学んだこと、授業案について学び・経験したとが大いに役に立ちました。更には、教育実習での経験が自分に自信をつけてくれました。ただ、教員免許取得の際には莫大な時間を注ぎ込み、本来すべき社会科学系の勉学が疎かになっていたかもしれません。とはいえ、自分の専門とは全く違う視点である教職課程の科目は今思い出しても興味深く、頭をリフレッシュし新たなことを学べたことに対する後悔はありません。

もっとも、自分のやりたいことが明確で、種々のご事情で時間的に大変厳しく余裕がないようでしたら敢えて教職課程の履修はしなくてもよいでしょう。以上の内容のごく一部でも、誰か一人のお役に立つことができれば、執筆者としてこれに優る喜びはありません。長々と失礼しました。

補足ー教職課程履修の際に読んだ、無着成恭「山びこ学校」について

 私が教職課程を履修している際に読むことを勧められた1冊の本があります。戦後すぐの、まさに何もない、当然、学習指導要領もない教員個々人の手さぐりによる教育が模索された時代に書かれたものです。山形県の山村にある中学で教員をしていた無着氏の教育実践及び無着氏の教え子の皆さんの貴重な記録です。

 教育の原点とは何か、を深く考えさせられたことを今も鮮明に記憶しています。注目して頂きたいのは、無着氏のような先進的な教育者の教育実践は、社会を見つめ、かつ、社会への良い意味での批判的精神があり、どうすれば現状を改善できるのかという視点で行動していることが読む取れると思います。教え子の皆さんは既に中学生時代に社会科学研究者が身に着けておくべき社会への洞察力と良い意味での批判的精神が育まれていたことには、驚嘆に値します。現在と当時とを単純に比較はできないですが、良質な教育と研究とは本来的には同質のものであるべきことを示唆しています(つい、研究者は教育と研究は別個のものと考えがちですが、本来的には同質のものなのかもしれません。私自身、答えが出ていません)。無着成恭「やまびこ学校」(岩波文庫)、はいろいろなことを教えてくれます。

 やまびこ学校は映画化されDVDが存在します。今井正監督「やまびこ学校」(出演:木村功, 岡田英次ほか)

 同書に登場する無着先生と教え子のその後を追ったルポも存在します。これまた貴重なものかと思います。佐野眞一「遠い『山びこ』―無着成恭と教え子たちの四十年」 (新潮文庫)です。

                            

コメント

タイトルとURLをコピーしました