大学での講義

講義受講の注意点

 週の始まりとなる4月5日・月曜日あたりから、講義を開始する大学も少なくないでしょう。大学での講義がどのようなものか、既にご存知の方も多いかもしれません。ただ、年月の経過と共に講義のあり方や単位認定のあり方にも、変化があります。また、大学教員ごとに内容・進行方法・大学教育に関する考え方は様々です。大学での講義は、小学校・中学校・高等学校のように画一的・均質的なものである必要はなく、現実的にも担当する教員によりかなりバラエティーに富んでいます。小中高での教育と大学での教育の違いこそが大学の特徴を示しているとも言えます。本日は、大学教育、特に、学部で展開される教育とはどのようなものなのか、建前論に終始することなく、現実に講義を担当している大学教員としての本音の側面についてもしっかりふれてくつもりです。大学での講義がどのようなものか、大学教員の教育への考え方を知ることは、大学院進学・研究者を志望する皆様にとって有益なことでもあります。

大学教育の特徴

小中高で受けた教育と大学・大学院で受ける教育には根本的な差異があります。小中高は純然たる教育機関ですが、大学は研究・教育機関です。小中高での教育は、ご存じの通り、文科省が定めた学習指導要領に基づき文科省検定済教科書を用い、全国津々浦々に至るまで同質な教育を提供することに腐心してきました。法律論だけからいえば、学習指導要領に反する内容を教育すべきではありませんし、教科書の範囲を大きく逸脱して教育するべきでもありません。もっとも、熱心な先生から雑談や余談の形で応用的・発展的な内容を教えてもらった方も少なくないかもしれませんが、そのようなことは本来は必要ではないのです。このように決められたことを丁寧に教えることが教育機関として求められることでもあります。他方、大学はどうなのか。大学は研究・教育機関であり、教育よりも研究をなすことに重きが置かれています。大学教員は日々、研究室等で研究に励み研究成果として論文を公表し、研究成果を発表する一環として学生に教育をするというのが伝統的な大学教育をめぐる理解です。ここでご理解頂きたいのは、大学では研究が重視され、教育はその付随的なもので良いのだという理解がされていました。とりわけ、大学の数が僅かで、大学進学者がごく僅かであった、戦前から戦後しばらくはこのような理解が当然で、大学教員がすべきことは研究であり教育は二の次であるということが大学教員間では公然と語られていました。研究と教育の注力度合ですが、この時代には研究9割:教育1割が普通で、教育熱心とされる先生でも研究7割:教育3割、とされていました。ちなみに、今は研究に5割割ける先生は恵まれている方でしょう、研究3割、教育4割、大学行政・社会貢献3割あたりではないでしょうか。

マスプロ教育の功罪

 戦後、大学教育に変革を求めることになったのは、いわゆる学生運動の時代でした。団塊の世代は人口が多く、やっと厳しい大学受験に合格しても、大きな教室に満杯で詰め込まれる、マスプロ講義が当然のように行われていました。しかも連休が過ぎれば半分は教室に来なくなることを見越した教室配当で、試験の際には、複数の教室を使うという学生を舐め切った運用がなされていたのでした。これに対しての異議申し立てが当の学生達からなされたのでした。しかしながら、大学経営を考えねばならない私立大学においてマスプロ教育を捨て去ることはできず、若干の改善はなされたものの、マスプロ教育はその後も続いていきます。ただ、マスプロ教育は私立大学だけではなく、定員の多い学部を抱える国立大学でも行われていたことにも留意すべきです。結局、出席をとることもできない程多人数の講義を教員一人が担当すると、出欠は学生の自由となり、日頃は履修登録数の数割しか出席者がいない講義も珍しいことではありませんでした。また、大学教員側もやむを得ないことと理解していましたし、大学生はすべての科目に出席する必要もなく、出たい科目だけ出席すればよいというのが教員・学生間の暗黙の了解になっていました。試験で合格点を取れば出席しなくても単位を与えると公言する教員や公言しないまでもそのような運用をする教員が多数派だったのでした。

マスプロ教育の終焉と単位の実質化

 かねてより予想されていたことですが、団塊ジュニア世代が大学生になって以降、大学は冬の時代を迎えます。少子化時代を迎えたわけです。多くの大学が淘汰されると盛んに喧伝されてもいました。このような激しい大学間競争をふまえ、資金力がそれなりにある大手私立大学を中心に受講定員数に上限を設ける、複数クラスを設置する等のかつてのマスプロ教育を抜本的に改善する動きが見られました。同時に、少人数教育である演習(ゼミナール)の充実などあれこれ施策が打たれました。これらの動きと直接的な関係を認めることはできないのですが、近年になり文科省は単位の実質化を求めるようになりました。単位認定するに値するだけの勉強を学生にさせなさいということで、出欠を厳格にとり、毎回のように課題・レポートを課す教員が近年になり増加しています。近年のこの動きに関しては、興味深いことを感じています。そもそも講義の運営をどうするべきかは最終的には担当教員の裁量です。そのため、単位の実質化の意味するところは教員間で見解が分かれていて試験の厳格化の方が重要だと主張する先生もいます。そのような先生は、マスプロ教育のころと同じく出席はとらない、課題・レポートを課すこともしませんが、試験は厳しめです。そして、厳しめの試験で合格点を取れば全回欠席でも事実上、単位を与えます。このような教員も一定数存在します。他方で単位の実質化の要請に忠実に従う教員もいます。この違いはどこにあるのか、私の個人的な調査・分析ですが、ご自身がマスプロ教育の荒波で育った教員、特に大手私立大学で学部時代を過ごした経験のある教員は、概ね日々の講義より試験を重視する傾向にあるようです。本音としては学生を講義に縛り付けることに否定的です。また、日頃の講義に出席さえしていれば、試験でダメダメな内容の学生に単位を与えることの方に大きな問題を感じているようです。私は単位の実質化は試験の厳格化でなされるべきで、日頃あれこれ求めるのはやり過ぎだと考えています。

おわりに

 現在、大学教員にとって研究はもちろんですが、学生への教育についても相当力を入れる先生が増えています。私も講義に関しては思うところがあり、まだ、十分書ききれていない面もあります。そのような事情もあり、今回、想像以上に長くなり失礼しました。

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