論文と批判

研究・教育
ashish choudharyによるPixabayからの画像

論文執筆の大変さ

 この文章を読んでいる方の中には、現在、論文執筆中の方もおられることでしょう。大学教員になり生活できるだけのポストを獲得してしまうと、学生教育や大学行政・地域貢献等で忙しくなることを理由に、ろくに論文を書かなくなる者が出現します。大学教員が研究成果である論文を書かないとはけしからん話ですし、そのような教員は内部では白眼視されているのが常です。このようにポストを獲得してしまうと安心してしまい論文を書かなくなるというのは、要するに、論文を書くことが学生教育や大学行政・地域貢献よりもはるかに困難であり、時間がかかり頭を使う極めて高度な作業であることを図らずも示しています。

 しかも、論文は、先行研究をふまえた上で新しい何かを書かないといけないので、テーマ選定の段階から悩みますし、テーマが決まってからも莫大な量の資料収集が必要ですし、自らの独自性・オリジナリティを出すとなれば毎日いろいろと考えを巡らさねばならない等大変です。

 更に、指導教授は人柄が立派でも、こと論文に関しては、研究者志望である院生に対して妥協はしませんのでいかに興味・関心のある内容を書いているとはいえ、決して安易な営みではないことと思います。本日は、論文への批判についてどう捉えるべきか情報発信します。

引用、批判は執筆者への敬意の現れ

 いぜんにさらっと指摘したことがありますが、論文を書くにあたり多くの先行研究に目を通し、熟読することでしょう。必要であれば引用の形で先行研究を紹介することになります。この引用という論文執筆において不可欠な作業は、後に自分の論文を読むことになる人が検証可能な状態にするためであり、また、引用する論文・著書等の執筆者に敬意を払うことにもなります。学問的に無価値だと思われる論文は引用することさえありませんから。

 同様に、自分が書いた論文が別の論文等で批判されることは腹立たしい思いの方もおられるかもしれませんが、基本的には上記の引用と同じなのです。わざわざ他人の論文を拝読し批判までするということは、執筆者に対して研究者として敬意を表しているのです。その上で、学問的に批判すべき点が批判されているのです。

 とはいえ、日本社会における論文ですから、批判も日本社会的、ムラ社会的な配慮をした上での批判がなされます。表立ってガンガン批判することは稀で、「・・・という点は誠に傾聴に値する見解ではあるが、〇〇〇の点についての考察が俟たれる」(真意:〇〇〇の点について考察していないようでは話にならない、ボケ)、「このような点についての再検討が期待される」(真意:このような点を検討していないとは何考えてんだコラー)、「学界における議論の進展が待たれる」(真意:将来、学界で議論されるようになればいいね、多分無理だろうけど)、みたいな形で婉曲な表現が取られることが多いことも事実です。研究者の意地の悪さ、底意地の悪さを感じざるを得ません。

批判がされるまで

 とはいえ、院生がはじめて学術雑誌に論文を掲載しても、あなたの存在そのものが研究者コミュニティーに知れ渡っていないのでどこかであなたの論文が紹介されればかなり良い方です。まして、批判されることは稀で、批判されるんおは、あなたが論文を定期的に書き、その分野ではそれなりの存在感がある研究者であると認知されてからのことでしょう。そして、変な論文を書いて学術雑誌に掲載などしてしまえば悪印象を残すことになると脅しをかけてくる教員が今もいるようですし、そういう面があることも否定はしませんが、より意識すべきことは院生・ポスドク・専業非常勤の頃(専任教員になるまで)は自分の存在感をUPさせるべく定期的に論文を書くことです(1年に1本は何か書きましょう)。若手の頃は少々の粗雑な点は許容され、粗削りながら将来性があるタイプが評価されるのは研究者の世界でも同じです。

 批判されるのは自らの存在を相手に肯定してもらってからの営みなので有難いことです。本当に怖いのは、変な論文を書くとかではなく、いつまでも論文を書かないがために、研究者コミュニティーにおいて当該研究者のことが話題になったとしても、そんな研究者知らないな、誰なのそれ?という状態になることです。最初から注目される、批判されるような論文を書くことはレアケースです。研究者としての自分の存在を認めてもらい、批判をしてもらうまでにはかなり時間がかかるのが通常です。

 要するに、研究という営みは時間がかかり、無駄も多く、自分の研究に関心をもってもらったり批判されるには相当の論文数の蓄積が必要となります。このことを十分理解した上で日頃の論文執筆に精進して頂ければと思います。

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました